清澤 光伸

ロンドに魅せられ
サッカーの常識と戦い続けた

ロンドに魅せられた
迷いはなかった

幼少期からパーフェクトなサッカーを身につけることを夢見ていた。相手に何もさせず、ずっとボールを握って圧倒したい。『ボールポゼッション=最大の防御』、『戦わずして勝つ』ことを理念とするロンドは正に憧れるスタイルだった。

19歳でブラジルへ
サッカー留学で受けた
最大の衝撃

ブラジル人の間合い、駆け引きの巧みさ。
アクセル全開でプレーすると見えなくなる、
身体のコントロールが効かなくなる、
間(ま)の感覚にいつまでも気付けない。
逆にスピードを落とし、力みを抜いていけばいくほど通用し、
認められることを知った。
それは日本の評価基準とは真逆だった。

圧倒的な存在感、
幼少期からの憧れ「ジーコ」

幼少期からジーコ、マラドーナの真似をし続けた。中学3年生時の86年メキシコワールドカップでは、真夜中に2人のプレーを必死で見た。22歳の時、ひょんなことからジーコの手伝いのオファーが入り、夢のような気持ちだったことを覚えている。

しかし、憧れの人と顔を合わせた瞬間、

そのオーラに、すべての血の気が失せた。

そのオーラに充てられるのが辛く、ジーコが心を許してくれるようになるまでは会うのをためらう事もあった。会うことが決まる度に自分を奮い立たせて『あのオーラに負けるな!』と自分に言い聞かせて挑んでいた。

「息子」と呼んでくれた、
ジーコの兄「エドゥ」

エドゥは家族ぐるみでの付き合いとなり、後々「息子」「右腕」と呼んでくれるようになる。それがただただ光栄だった。

JSSC-CFEでは選手も兼任してのサポートだったが、対Jチーム、天皇杯など重要な試合はすべて監督代行。チームを私に任せてエドウは観客席から見ているという試合も多々あった。監督代行は責任ある立場ではあるが、ストライカーとしてどんなに点を取り続けていても大切な試合には出れないという葛藤も同時にあった。それだけでなく、エドゥは私だけにGKも含むすべてのポジションでプレーをさせた。

エドゥの意図した形かはわからないが、今の私のサッカー観はエドゥによってもたらされた一つの形なのだと感じている。公私において常にエドゥの隣で彼のサッカー観を学び、日本人は日本人のオリジナルを見つけなければならないという意識を叩き込まれたのだ。

CFE エドウサッカーセ ンター
人々の心を惹きつける
今でも自分の理想とするクラブ

ホームグランド、選手寮、クラブハウス、etc、プロ顔負けのとんでもない自前の施設が出来た。しかし選手層は肩書きも大したことない者ばかりの寄せ集め。それがあっという間にアマチュアサッカー界ではほぼ無敵の状態となり、当時のJクラブの多くを打ち破る力を持った。

我々の圧倒に「どっちがプロだ!」と監督に怒られているJチームの姿もあった。中には三重県への移転→我々との合併を求め、本気で交渉してきたJクラブもあり、とても魅力的で、様々な人々の心を惹きつける自分の理想のクラブだった。

ジーコ・エドウ兄弟
日本代表スタッフ就任

ジーコからエドウに電話があり、エドウからすぐに私に相談があった。
『日本サッカー界のため…』彼らの意思を聞き、即座に応援する気持ちが固まった。特にエドウに関しては日本サッカー協会とのやりとりも任された。
「日本代表に〝あのサッカー〟を叩き込む時がやっと来たんだ」と、あの時の私の心は踊っていたことをよく覚えている。

 

ロンドスタイルのサッカーを伝えたい

立ち塞がったのは
サッカーの〝常識〟

自分が想い描いたサッカーを伝えるだけの単純なこと。エドゥ、ジーコのバックがあった時は「なるほど!目から鱗!」と誰もが驚嘆した。しかし、彼らのバックが無くなると私の言葉は受け取る人にとって「???」になっていった。

短期間で強いチームが出来た理由、考え方、驚異的な結果が出せる方法。エドゥ、ジーコが日本代表に伝えようとしていること。伝わらずに苦労している様子。それ以上に私の言葉には誰も耳を傾けてもらえなくなり、世の中には通らなくなった。

伝わらない葛藤、怒り

何故、日本人はみんな同じサッカーしかしないのだろう…?

無理矢理なプレーばかりで、何故、簡単にサッカーをしようとしないのだろう…。私にはどんぐりの背比べに見えてしまう。何故それが分からないのだろうか…。

世の中で正しいとされることの中には、本当は正しくないものもある。真の常識に気付いた時でさえ、今まで信じていたものを捨てられず、異物として否定しがちになる。

では、どうすれば皆が耳を傾けてくれるのか?

大切なのは、誰も否定せず、何事も否認せず、分かってもらえるよう伝える。伝え続ける。もし分かってもらえなければ、さらに工夫を凝らす。分かってもらえるまで。自分自身が頑なにならないよう、「伝えたいこと」が本当の意味で相手に伝わるまで。

20年という時間をかけても
冷める事の無いロンドへの探究心

ロンドスタイル

ロンドスタイル。
これこそが日本人が追求を楽しめるオリジナルサッカースタイルだと確信した。しかし、誰にも理解されず、馬鹿にされ、否定してくる人が次々に現れた。私は意地になり、いつしか孤立し、誰からもに必要とされなくなり、進む道が無くなっていった。
どん底を味わい、強い孤独感、開き直り、ネガティブマインドを吐き捨ててすべてを受け入れ、感謝の気持ちを持って突き抜ける覚悟に心を転換出来た時、「完成するまで残りの人生を賭けてやり抜こう。」と思えるようになった。

 

日本がW杯で優勝する姿

かつてはW杯に出て優勝するという夢を抱いていた。夢に向かう過程で、日本人でもヨーロッパや南米の人々に通用するロンドという戦い方に出会った。文化、歴史、習慣、民族性などから考えて、ロンドこそ、我々日本人が扱うのに最も適している人種だという確信があった。今はこの夢は、夢ではなくなると本気で思っている。
ならば、自分が生きているうちに日本がW杯で優勝する姿が絶対に見たい。見なければならない。そう決意した。

 

RONDS始動のきっかけ

ちょうど世界が新型コロナウイルスの脅威にされされていたのと同時期。20年間の研究を経て、ついにロンドスタイルを日本のプレーヤーに伝えるためのサッカーメソッド「清澤式ロンド」が完成した。
しかし個人的に世の中からは完全に孤立しており、これを外部に知ってもらえる手段が何も見当たらなかった。そんな時、かつてブラジル留学から帰国直後にサッカーを教えていたイッシー(当時高校生)からたまたま電話をもらい、25年ぶりに再会する。

それからイッシーとは何度か会う機会があり、清澤式ロンドを広めるためにYouTubeを活用することを勧められる。サッカー系YouTuberぱんだ兄弟さんとの出会いもイッシーからの紹介だった。
また、今や立派な経営者になっている幼馴染たちにも相談。色々な人たちに相談してみたところ、少しずつ力になってくれる人が集まり始め、朧げながらもずっと考えていた構想を実行に移せる目処が立った。夢を叶える一歩を踏み出した。

それが清澤式ロンドの普及・実演チーム「RONDS」だ。

日本中の誰もが地域レベルから
ロンドを操る未来へ

RONDSにかける清澤の想い

プレーヤーとして、無名の私にも関わらず、プロ選手、YouTuberなどのインフルエンサーの方々がお集まり頂き、共にこのプロジェクトの仲間になってくださったこと、まずは厚く御礼を申し上げます。また私たちの活動を様々に支えてくださる方々、応援してくださる方々、心から深く感謝を申し上げます。

RONDSこそが、清澤式ロンドの普及・実演による証明、『ロンドを操る世界唯一の国、日本』を実現するために欠かせない柱です。

RONDSは、私たちを必要として頂ける方々にとって遠い存在ではなく、身近な存在となります。必要とあらばいつでも、どこへでも飛んでいきます。史上、最も自由で楽しく美しく、魅力的なサッカースタイル、ロンドを知ってもらうために。

RONDSは夢の実現を支援してくれる
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